かつて、私の身体は濃い調味料と刺激的な油、そして強烈な甘みといった食事によって駆動していた。
仕事に追われ、時間と心の余裕を失っていた頃、私の毎日はジャンクフードやコンビニ弁当、居酒屋メニュー、お菓子と酒で埋め尽くされていた。深夜のデスクで袋を開けるポテトチップス、炭酸飲料で流し込む脂っこいバーガー。コンビニのホットスナックを食べ歩き、ファミレスで仕事しながら昼食を食べ、大好きな二郎系ラーメン屋を巡っていたし、食事を作るのが面倒くさい時はUberやピザを出前することもしばしば。現代においてフードデリバリーや冷凍技術は極まり、指先ひとつで脳が最も興奮する味が、いつでも、どこでも手軽に手に入る。
それは、一口食べた瞬間に圧倒的な多幸感をくれた。脳がダイレクトに美味いと叫び、疲れが一瞬で吹き飛ぶような錯覚を覚える。 しかし、その快楽は長くは続かない。胃袋は限界まで満たされているはずなのに、なぜか私の細胞は常に飢えていて、翌日にはまた、さらに強い刺激を欲するようになる。慢性的な倦怠感と、どこか落ち着かない心のざわつきが確かにあり、それは快楽では拭いきれなかった。
当時は気づいていなかったと思う。私の舌と脳は、外側から与えられる過剰な刺激によって完全に麻痺していたのだ。手軽に快楽を摂取しているようでいて、その実、私は食べることを通じて自分自身の生命の輪郭を少しずつぼやけさせていたのかもしれない。
DNAが思い出す、引き算の美味しさ
あるとき、その悪循環をすっぱりと捨ててみることにした。きっかけは、度重なるぎっくり腰と首の痛み。肝機能の数値悪化による再検査。アラフォーを迎えた身体があげた、小さな悲鳴だった。
舵を切ったのは、かつての私なら物足りないと一蹴していたであろう、極めて素朴な日本の食卓だった。 昆布と鰹節で丁寧に引いた出汁の匂い。季節の野菜をほんの少しの塩と醤油で煮含めたもの。土鍋でふっくらと炊き上げた、瑞々しくも噛み応えのある玄米。それは、私たちの祖先が何百年、何千年の時間をかけて培ってきた日本人特有のDNAや体内構造。例えば、穀物をじっくり消化するための長い腸や、発酵食品を分解する菌の働きに最も自然に馴染む食事療法だった。
最初は確かに、舌が迷子になった。薄味が嫌いなわけではないが、スーパーに並ぶパンや惣菜、デザートを見ると手に取ってカゴに入れてしまいそうになるのを必死で抑えた。しかし、1週間、2週間と多量の油や強い甘みを遠ざけていくうちに、奇妙な変化が自分の身体に起き始めた。 舌の表面の細胞が生まれ変わるように、私の味覚がリセットされていったのだ。
これまで気づかなかった、大根の奥にある仄かな甘み。米を噛み締めたときにあふれる豊かな滋味。それらが、驚くほど鮮烈に美味しいと感じられるようになった。 身体がその引き算の美味しさを覚えると、不思議なほどに、あんなに執着していたジャンクな油や砂糖、小麦粉を欲さなくなった。脳を興奮させるための調味ではなく、命を潤すための滋味を、私の身体が自ら選び取り始めた瞬間だった。
食べたもので、精神が編まれていく
「私たちの身体は、半年前に食べたものでできている」。一度は耳にしたことのあるこの言葉の真実に、私はかつてないほど静かな戦慄を覚えている。食べたものが消化され、血となり、肉となり、骨となる。それは科学的な事実だ。ということは、その血肉によって巡るホルモンや、脳を働かせる神経伝達物質も。つまりは、私たちの心や精神もまた、食べたものによって1ピースずつ作られているに他ならないのではないだろうか。
振り返れば、毎日ジャンクフードを詰め込んでいた頃の私は、心の中までファストになっていた。 いつも何かに急かされ、他人の言動にイライラし、一瞬で消費されるタイムラインの情報に一喜一憂する。刺激的な食べ物は身体にとっても刺激的なものに変わりがなく、酷く脆い精神を生み出していたのだと思い返す。
食生活を日本人の身体に相応しいものへと変えてから、私の心には凪のような静けさが戻ってきた。 今、私は自身が豊かな生活を送れていると心から思える。「旬を味わう」という言葉があるが、人間にはコントロールできない自然の巡りを受け入れるということだ。春の苦味、夏の瑞々しさ、秋の豊潤、冬の蓄え。その季節にしか出会えない食材を愛おしみ、丁寧に料理していただく。その一連の時間は、私の精神に自分らしくあり続けるための、揺るぎない土台を築いてくれた。 食事をおろそかにすることは、自分自身の心を雑に扱うことと同じなのだ。
あずまやで分かち合う、命の余白
生産性のための効率とスピードが最優先される現代社会において、食事をただの栄養摂取のタスクとしてサプリメントや完全食で済ませる生き方は、とてもスマートに見える。それはそれで、時と場合によって各々が自分の体と相談しながら嗜めばよろしい。
しかし、あずまやという空間では、その効率主義から最も遠い場所にある食の贅沢を大切にしていきたい。
あずまやが提案したいのは、高級な三ツ星レストランの料理やヴィーガン、オーガニックにこだわった健康食品だけが全て正しいという姿勢ではない。むしろ、地域のスーパーや自宅の庭で採れたネギを刻んで冷奴に乗せるような。あるいは、季節の節目にほんの少しだけ丁寧に淹れたお茶を飲むような。そんなささやかでも食材へ真正面から向き合っていただく、愛に満ちた時間と空間だ。 味覚を開くということは、世界が用意してくれた豊かな季節のグラデーションを、身体いっぱいで受け止めるということだから。
外側の騒がしいエンタメや強い刺激に疲れて、自分の中心がブレそうになったときは、いつでもあずまやへ逃げてきてください。 ここでは、誰かと比べるための情報ではなく、あなたの身体と精神をそっと満たしてくれる、優しくて淡い滋味となるような思想を用意しています。ゆくゆくは、そういう料理を一緒に作り、食べながらお話しできる空間を作りたいものです。
今度の週末は、スマホの画面を伏せて、ただ目の前にある温かいスープを味わいながら、自分の身体が本当によろこぶ変化の声に耳を傾けてみませんか。
