指先ひとつで世界中と繋がり、誰とでも言葉を交わせるようになったはずの現代。しかし、私たちの目の前に広がるのは、かつてないほどに過酷で、息苦しい同調の空気だ。
SNSを開けば、そこには顔の見えない巨大な集団の正義が渦巻いている。インフルエンサーと呼ばれるアイコニックな存在が提示する正しさやお洒落さの基準に、私たちは無意識のうちに自らの足並みを揃えようとする。そしてひとたびその基準から逸脱した者が現れれば、匿名という安全圏から無数の刃が飛び交い、標的を集団リンチのように吊るし上げ、社会から抹殺するまでその炎は消えない。
「みんなと一緒でなければならない。間違えてはならない」
画面から漂うその強烈なプレッシャーに、私は日々、胸が詰まるような思いがする。少しでも気を抜けば、自分だけがその輪から弾き出され、透明な存在にされてしまうのではないかという恐怖。手のひらの上のガラス板は、私たちを優しく繋ぐ道具ではなく、常にお互いの顔色を伺い合うための、精巧な監視装置になってしまったかのようだ。
テレビの前に群がっていた、あの頃のトランクィリティ
しかし、この息苦しさに眉をひそめながらも、私はふと、自身の過去の記憶へと意識を巻き戻してみる。よくよく考えてみれば、この「みんなと足並みを揃えなければならない」という同調圧力そのものは、今に始まったことではないはずだ。
テレビが家庭の、そして生活の絶対的な主役だった子どもの頃を思い出す。 学校という狭いコミュニティで生き残るためには、昨夜誰もが観ていたはずのトレンディドラマやバラエティ番組の話を知っていなければならなかった。話を合わせるためだけに、大して興味もない画面を必死になって追いかけ、翌朝の教室で「昨日あれ観た?」の輪に滑り込んで安堵する。あの頃の私たちもまた、今と変わらず、必死になって流行という名の集団の影を追っていた。
今思えば、あの必死さも十分に病的な精神状態だったのかもしれない。けれど、あんなに流行を追っていたはずなのに、あの頃の私たちの記憶には、どこか牧歌的で、ゆったりとした時間の流れが確かに存在していた。 私たちは今も昔も、集団に置いていかれないために必死で情報を得てきた。それなのに、あの頃と今とでは、決定的に何かが違っているのだ。
なぜ、テレビをゆっくり観る暇さえ失われたのか
その違いとは何か。それは、現代の私たちが一様に抱えている見えない忙しさ、圧倒的な時間のなさという飢餓感である。
今、私たちの周りには「テレビを1時間、ソファに深く腰掛けてゆっくり観る暇なんてない」という空気が満ちている。動画は倍速で消化され、ニュースは要約だけで済まされ、常に何かをインプットしていなければ時間がもったいないと焦る。1日は昔も今も変わらず24時間であり、テクノロジーによって家事も仕事も効率化されたはずなのに、なぜ私たちはこれほどまでに時間が足りないのだろうか。
その正体は、情報の消費期限の劇的な短縮にある。
テレビの時代、ドラマの消費期限は1週間あった。次の放送までの7日間の間に、私たちはのんびりとその情報を咀嚼し、友人たちと小出しに語り合うことができた。そこには豊かな余白があったのだ。 しかしSNSの時代、トレンドの消費期限は数時間、下手をすれば数分で終わる。タイムラインで今この瞬間に燃え盛っている話題は、明日には誰も見向きもしない過去の遺物となることだってある。
つまり私たちは、情報そのものに追われているのではない。圧倒的な情報量と短くなりすぎた期限に追われているのだ。常に最新のレスポンスを求められ、数時間スマホを見なかっただけで自分だけが世界から取り残されるのではないかという恐怖。だからこそ、テレビをゆっくり観るような停滞を、私たちの脳は許さなくなってしまった。
年々辛くなる短距離走の果てに、あずまやが灯すもの
今も昔も、私たちがやっていることの本質は変わらない。「集団に置いていかれたくない」という切実な願いのために、外側の情報を必死に集めているだけだ。
けれど、その行為は年々、確実に辛くなっている。 かつては心地よいハイキングのようだった情報収集が、今や終わりのない、一歩も立ち止まることが許されない無限の短距離走へと変貌してしまったからだ。他人の背中を追いかけ、消費期限切れの言葉を慌てて喉に詰め込み続ける日常。私たちは、便利さの代償として、自らの精神をすり潰しながら生き急いでいる。
だからこそ、あずまやという空間では、その過酷なレースの登録を一度解除してほしいと思う。
あずまやが大切にしたいのは、情報の速さでも量でもない。むしろ、世間のトレンドからはとっくに消費期限切れとされた、あなたの個人的で古い思い出や、すぐには答えの出ない歪な思考の破片だ。 ここには、あなたを追いかけてくる通知もなければ、数分で切り替わるタイムラインもない。
迫り来る情報の激流に息が切れ、走るのが年々辛くなってしまったなら、いつでもあずまやの軒下へ逃げ込んできてください。 ここでは、最新のニュースを追う必要はありません。ただ流れる風の音を聞きながら、あなたがあなた自身の時間を取り戻すために、静かに、そしてゆっくりと、未完成の想いを一緒に温め直しましょう。
