マヨウ鼻 アイマイナ記憶

2025年。アラフォーという消せない肩書きが加わってから、私はひどく「健康」に飢えている。きっかけは、健康診断で初めて再検査という結果を突きつけられたことだった。

改めて自分の現状を見つめ直した時、自分の身体能力が記憶していたものとはだいぶかけ離れていた事実に焦りを感じた。私はまだ大丈夫。そう思い込んでいたが、老いは静かに、確かに進行していることに改めて気付かされる。

増える贅肉、皺、白髪、黒子。減る筋肉、脂、毛髪、睡眠時間。死からは逃れられないが、老いには抗いたい。命が尽きるその日まで、心身はできる限り若々しさを保って生きていたい。それが自らの努力で叶えられるのなら何でも試すし、良いと言われるものは続けてみせる。こうして、最新の情報を元にいろんな健康法を日常に取り入れていくようになった。

中でも、特に関心を抱いているのが「食」である。進んで食べた方が良いものと、食べるのを控えるべきものとを篩にかけて、できるだけ前者を取り入れるような生活を心がけている。その中で行き着いた先の一つが発酵食だった。納豆や味噌、酢、チーズ、ヨーグルト、鰹節、漬物……。

「そうだ糠漬け、作ろう。」

そんなに昔でもない昔、一家の台所には一壺の糠床が当たり前のように居座っていたという。それだけ当時の日本人にとって糠漬けは、「華やかではないけど、ないと寂しい」食の女房的な存在と捉えられていたのだろう。だが、それは美食と合理性に押し流され、今や「面倒で臭うもの」として追放されつつある。

私の実家にも糠床はなかった。子どもの頃から漬け物を好んで食べていた記憶も、興味もなかった。だが、三十五をとうに過ぎて四十に体半分を突っ込んでからは、主菜よりもその隣にぽつねんと控えめに置かれている漬物の香りや味にグッとくる瞬間が多く訪れている。嗅覚も、味覚も、年齢を重ねると好みが変わっていくものなのだろうか。

何だか複雑な気持ちになるが、私の中で何かが変わったことはポジティブに捉えたいし、この閃きをひらめきのまま終わらせておくのは勿体無い気がした。そこで、糠漬けの栄養について調べてみると腸が喜ぶ食べ物だということが改めてわかる。糠漬けの持つ栄養や醗酵の力は、私たちの健康を維持するために不可欠な要素だということにも関心が芽生える。

糠漬けは、日本人が歴史の中で生み出した遺産だ。そんな先人の知恵を継承したいという高尚な義務感があるわけではない。作り方も、管理の仕方もよくわかっていない。しかし、あの複雑かつ奥の深い酸味、旨味をこの手で生み出したいというただ静かな欲求。糠床の作り方を一から調べて材料を揃え、いざ私は乾いた糠に手を突っ込んだのだった。

我が家の糠床記念

美味しい糠床を作るのに揃えておきたい材料は、ぬか、塩、水、昆布、かつお節、唐辛子。それをタッパーやホーローの容器の中で混ぜて、捨てるはずだった野菜の切れ端などを漬けて、出して(捨て漬けの野菜も食べられる)を毎日繰り返していけば三週間ほどで糠床が完成する。

糠床を作るのは、驚くほど簡単だ。だが、その単純さの奥には、底なしの深淵が広がっている。人によって炒り糠にするか、生糠にするか。塩や水分の調整。旨味を加えるために干し椎茸や煮干し、山椒など好みの食材を加えていく。そうして、初めてその家庭の糠床となる。

毎日、綺麗に洗った手で底から空気を入れ替えるようにかき混ぜる。私の手の常在菌と、糠の中に潜む微生物たちが、密室で無言の対話を繰り返していると思うとなんだか面白い。乾燥していた手も、少ししっとりとしたような気がする。一週間、二週間。 三週間経つ頃には、私の糠床は我が家の匂いを帯びてきた。

野菜の捨て漬け期間を終了し、本格的に野菜を丸ごと漬けてみる。定番の胡瓜や茄子はもちろん、卵、アボカド、トマトも漬けてみる。意外な食材が、糠の魔法で未知の滋味へと変貌する。どれも食べたことのない美味しさで、さらに糠漬けの野菜を料理に使うと一段と深い味わいになる。なぜ、もっと早くから糠床を作らなかったのだろうか。私は、自分だけの正解を育てる時間に、微かな充足感を覚えていた。

鼻アルコール臭とシンナー臭。あらためて、こんにちは嗅覚

そうして2025年は糠漬けを我が家に迎え入れた記念の年となり、2026年も変わらずに糠漬けライフを送るものだと思っていた。しかし、変調は年の瀬、数日の出張から帰った夜に訪れた。

出発してから「糠床、冷蔵庫に入れなくて大丈夫かな」と気にはなっていた。しかし、ここのところ度々家を留守にすることがあり、その都度冷蔵庫に入れておけば一日混ぜなくても味が変わることはなかった。そして、部屋も寒くなってきたし、冷蔵庫の中の温度とあまり変わりはないはずだから大丈夫だろうと高を括っていった。しかし、帰宅して野菜を漬けようと蓋を開けた瞬間、鼻腔を突いたのはいつもの心地よい酸味ではなかった。 ツンとした、それでいてどこか陶酔を誘うような妙な匂い。

「アルコール臭……いや、これはシンナー臭か?」

私は困惑した。数日前まで愛おしかったはずの糠床が、急に得体の知れない化学物質の塊に見えたのだ。急いで画面越しに解決策を探すと、そこには

「アルコールの匂いなら産膜酵母の仕業」

「シンナーの匂いなら酪酸菌の暴走」

といった、もっともらしい解説が並んでいる。そして、それぞれの対処方法なども異なっている。匂いの感覚ではまだ腐敗はしていないと思うから、今からちゃんと対応すればきっと復活してくれる、はずだ。だが、私はそこで立ち止まってしまった。 「……そもそもシンナーの匂いって、どんな匂いだったっけ?」

わかっているかのようにシンナー臭だと言ってみたものの、私が最後にシンナーの匂いを嗅いだのはいつだろうか。学生時代の頃の理科室か美術室か。いやいや、そんな昔のことではないはずだ。DIYブームに乗っかって小物を工作した時か。工事現場の近くを通った時か。殺虫剤を散布した時か。

シンナー臭とアルコール臭は決定的に違う。でも、どちらも現物がない以上匂いの記憶に頼るしかない。だけど、目の前の糠床を匂ってみても、だんだんとどちらの匂いに近いのか判別がつかなくなってくる。言葉では区別できているつもりだったが、私の鼻はその二つの境界線をとうに忘却していたのだ。

私は、自分の嗅覚がいかに頼りないものであるかを不覚にも糠床から突きつけられた。しかし、嗅覚は脳内で記憶や感情を司る海馬へ直接信号を届ける唯一の感覚であり、五感の中でも最も記憶に残りやすい感覚だという(忘れやすい順に聴覚>視覚>触覚>味覚>嗅覚)。私は、視覚や聴覚といった一見記録しやすい五感に頼りすぎ、もっとも原始的で、もっとも記憶に直結しているはずの「嗅ぐ」という行為を、私は長らく疎かにしていたのだ。

かつて、人間は鼻で世界の理を峻別していたはずだ。 これは食えるものなのか。これは腐っているのか。これは自分を傷つける毒なのか。 私たち(一緒にされても困るという方はすみません)は、その野生の判断をいつの間にか放棄してしまった。賞味期限という印字された数字を信じ、生産者の顔も知らないパッケージに全責任を預け、金と引き換えに自分で判断する痛みから逃げ出してしまっているのではないだろうか。

私はキャンプが好きだ。自ら火を起こして黙々と買った食材を焼いて、煮て、揚げて。野外でシンプルに調理・味付けして食べる食事が日常の食卓よりも美味しく感じられるのは、危険な外に注意を払うために五感が研ぎ澄まされ、食材の持つ本来の味を楽しむことが出来るからだ。もし、糠床をキャンプ中に嗅いだらどちらの匂いなのか当てられたかもしれない。

私は、糠床に鼻を近づけ、もう一度深く息を吸い込む。 脳の奥がピリリと震える。 この匂いは警告か。それとも取り戻せるプロセスか。 その答えはYouTubeにも、誰かのブログにも載っていない。私の鼻が、私の記憶が、私の本能がそれを選別し、物語として編み直すしかない。私は、賞味期限の印字されない人生を歩きたい。 たとえそれが、少しばかり鼻を突く、面倒な代物であったとしても。

いろいろ試行錯誤してみたが、糠は一向に本来の姿に戻ってくれることはなかった。私の知識、そして経験不足が招いた結果である。我が家に招き入れ、育て始めた糠とはさよならした。せっかく美味しくできただけに悔しかったし、驕り侮っていた自分が情けなかった。

今度は失敗しないよう、さらに知識を蓄えてシン・糠を生み出そうと画策している。いい糠床を作るには新鮮な生糠が不可欠だ。2026年、筍が市場に並ぶ頃に糠を手に入れ、再開したい。